ヘンリー五世のフランス侵略計画「ノルマンディー上陸作戦」

2020/04/24

百年戦争と15世紀フランス

t f B! P L
クロード・モネ「干潮のラ・エーヴ岬(La Pointe de la Hève at Low Tide)」

今回は、英仏・百年戦争が再開した時、ヘンリー五世が計画していたフランス侵略ルートについて予想してみました。
以前、SNSでつぶやいた雑談を大幅にリライトしています。


1415年8月25日から10月末ごろ。
当時の王太子ルイは兄のことだ。私は12歳。





ヘンリー五世のノルマンディー上陸作戦


Web小説「7番目のシャルル 〜狂った王国に生まれて〜」の第三章《アジャンクールの戦い》編の冒頭、ヘンリー五世率いるイングランド軍はフランス西海岸の港湾都市アルフルールを攻撃します。

百年戦争は、ここから後半戦スタート。

少し進んで、第五章《王太子の宮廷生活》編から登場する詩人アラン・シャルティエの出身地はバイユー。


私が王太子となって1年後、
母と愛人の謀略で、命からがらパリを脱出した。
このとき、詩人アラン・シャルティエは
パリ大学の教授職を捨てて追いかけてきたんだ。


アルフルールもバイユーも、ノルマンディー地方カルヴァドスにあります。
イングランド王家は、元を正せばノルマンディー公です。昔から縁の深い地域だったと言えます。


画像1
ノルマンディー西岸の拡大図。

赤い虫ピン(吹き出し)の場所が「Harfleur(アルフルール)」です。


セーヌ川河口の両岸に、
アルフルールとオンフルールという町がある。
La Pointe de La Heve(ラ・エーヴ岬)は、
いまはLe Havre(ル・アーヴル)という町だが、
15世紀当時はただの資材置き場だった。


地図の西側に見える「Bayeux(バイユー)」はアラン・シャルティエの故郷です。
なお、近くに見える「Caen(カーン)」は、第二次世界大戦の終盤ノルマンディー上陸作戦の激戦地です。

上の地図(ノルマンディー西岸の拡大図)と下の地図を見比べてください。


画像2
赤丸が上陸地点のラ・エーヴ岬とアルフルール。青丸が港湾都市カレー。


英軍は、ラ・エーヴ岬(赤丸)から上陸。

英仏間を行き来するなら、英領ドーヴァーと仏領カレー(青丸)間を渡るほうが距離的にも近くて楽なのに、わざわざ赤丸を上陸地点に選んだ理由は何でしょう?

なお、カレーの50km南に、第三章で戦場になったアジャンクールがあります。


ヘンリー五世率いるイングランド軍、実際の行軍


  1. ラ・エーヴ岬から上陸して港湾都市アルフルールを攻撃。
  2. アルフルール守備隊、2ヶ月持ちこたえるが陥落。
  3. イングランド軍、西海岸を北上してカレー港へ向かう。
  4. カレーの南でフランス軍追いつく。アジャンクール村付近で英仏激突。
  5. フランス軍大敗。金持ち騎士は身代金目的で捕虜(人質)に、貧乏騎士は家畜小屋などに監禁され生きたまま焼却される。
  6. イングランド軍、人質を連れてロンドンに帰還。


行軍のゆくえを眺めていると、こう、何と言うか…
ヘンリーに問い詰めたくなってくる。
YOUは何しにフランスへ?




ヘンリー五世の当初の侵略計画(予想)


画像3
セーヌ川の流域図。西の突端にラ・エーヴ岬。

西の突端に「Le Havre(ル・アーヴル)」という町があります。
ここがラ・エーブ岬。セーヌ川の終端・河口です。

(当時はル・アーヴルという町はありませんが、とりあえず目印として)

セーヌ川の河口、両岸にアルフルールとオンフルールという都市があります。

河口から東へさかのぼると「Rouen(ルーアン)」が、さらに上流には「PARIS(パリ)」があります。


港湾都市アルフルールはセーヌ川の河口にある。
つまり、王都パリへつながる水運の要衝。
なるほど、ヘンリーの考えが読めたぞ!


運河を制圧してセーヌ上流をさかのぼっていけば、最短でパリまで到達できそうですね。


ジャンヌ・ダルク火刑の地ルーアン


河口から東へさかのぼると「Rouen(ルーアン)」が、さらに上流には「PARIS(パリ)」があります。


ノルマンディーの首府、ルーアン。
ジャンヌ・ダルクの異端審問と火刑が行われた地として知られています。
勝利王シャルル七世率いるフランス軍がこの地を奪還するのは、火刑の20年後になります。

ここは長い間(百年戦争の最終盤まで)イングランドの支配地域でした。


イングランドが実権を握っている地域だ。
あの時、囚われのジャンヌの身に何があったのか、
異端審問から火刑の経緯について、
私には何もわからないし、何もできないよ。



そもそも、王侯貴族が管轄する世俗的な裁判と、聖職者が管轄する異端審問はまったくの別部門ですから、「シャルル七世はジャンヌ・ダルクを見捨てて何もしなかった」という通説は的外れだと思っています。

ルーアンを取り戻すまで、「何もできなかった」と言った方が正しい。

シャルル七世をフランス王として支持するアルマニャック派は、一枚岩ではありませんでした。
内部分裂を避けるために、王は何も言えなかったでしょう。

その一方で、異端審問中のシャルル周辺の動向から察するに、彼自身もまたある危険を冒してジャンヌ救出を試みていたと推測できます。
Web小説のネタバレになってしまうため、以下略。


賢明王シャルル五世の遺産


話を「ヘンリー五世の侵略計画(予想)」に戻します。
ラ・エーヴから上陸し、ルーアンを通って、さらにセーヌ川上流を遡っていくとパリに着きます。

おそらく、ヘンリー五世はセーヌ川の運河(=水運、物流)を抑えてから、セーヌ流域をさかのぼる最短ルートでパリ侵攻を考えていたのではないかと。

しかし、アルフルール守備隊が予想以上に奮戦し、英軍の半数を壊滅させてしまいます。

賢明王シャルル五世(シャルル七世の祖父)はイングランドの再侵略を予想し、港湾都市アルフルールに強固な防衛体制を整えていました。

ヘンリー五世は、賢明王の予想どおりにアルフルールを攻めてきました。

賢明王の布石は、狂人王シャルル六世(シャルル七世の父)の治世下で没落していく王国をギリギリの所で守ったと……
セーヌ流域からのパリ侵攻を阻んだという意味で、そんな風に思います。


じっちゃん……
会ってみたかった……!


イングランドは苦戦しながらもアルフルールを占領しました。
しかし、この戦いで軍の半数を失ったために戦線の拡大が難しくなり、パリ進撃よりも補給路を確保する必要があった。

そこで、セーヌ川から侵攻するルートを諦めて、フランス西海岸沿いを北上してカレー港(海峡がもっとも狭く、英仏を行き来しやすい)を目指すことになったのではないかと推測しています。


くっ、じっちゃんの名にかけて!
フランスからイングランドを駆逐してやる…!!


なお、このページトップのイメージ画像は、クロード・モネ作「干潮のラ・エーヴ岬(La Pointe de la Hève at Low Tide)」より。







関連Web小説(外部サイト)『7番目のシャルル ~狂った王国にうまれて~』掲載先リンク集
[あらすじ]
15世紀フランス、英仏・百年戦争。火刑の乙女は聖人となり、目立たない王は歴史の闇に葬られた。
一般的には「恩人を見捨てた非情な王」と嫌われ、歴史家は「建国以来、戦乱の絶えなかった王国にはじめて平和と秩序をもたらした名君」と評価しているが、500年後にめざめた王は数奇な人生について語り始めた。
「あの子は聖女ではないよ。私はジャンヌを聖女とは認めない。絶対に」
歴史に残された記述と、筆者が受け継いだ記憶をもとに脚色したフィクションです。

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